2013年2月24日日曜日

こてつに思うこと

ウチには今年で15歳になる雄ネコがいる。
名前は「こてつ」
言わずと知れた「じゃりん子チエ」からの拝借。
なぜ平かな表記なのかと言えば、見ての通りのヘタレだからwww


3年前には腎不全を患い体重が4kgから2.6kgまで落ち込んだ。
獣医からも進行性だから長くはないと、覚悟する様に言われた。
ところがその後、順調に回復し体重も3.6kg程度で安定し、あれは何だったんだろうと思うくらい元気。

年齢的には老猫だけど、今日もニャーニャーと子猫の様に高い声で甘える。
臆病なくせにナゼか家人には無防備で、ツメを切ってもゴロゴロと抵抗もせずにツメを切られている自分の手足(どっちも足か(^^;;)を眺めている。
私にとっては子供達よりも付き合いが長く、ムスメ達にとっては兄貴にあたる。
が、その妹たるムスメ達にも甘える始末。
お前さん年長者なんだからさ‥

それでもやはり15歳と言う年齢は、彼との別れを連想させるに十分な数字として重くのしかかって来る。

ムスメ達は最近、彼の世話を進んでやる様になってきた。
エサやり、爪切り、トイレの始末、ブラッシング、耳掃除。
小さい頃のムスメ達にとって、彼は極論すれば「可愛い、動くヌイグルミ」であったに過ぎない。
だから「死ぬ」と言うことが実感出来なかったし、おそらく彼の「死」を前にしても感慨は無かっただろう。
今、彼女達は生きとし生けるもの、本当の意味で家族として彼を見ている。
日々の世話をして初めて湧く感情を彼女達も獲得したんだろう。

そんな彼女達の前から彼が姿を消す日が、刻一刻と迫っている。
その日、彼女達は深い悲しみを味わうことになる。
とても残酷なことだと思う。
私はそんな彼女達を見ることで精一杯で、彼を失った悲しみを受け止めている余裕すら無いかもしれない。

「死」は悲しく、残された者の心に深く突き刺さり大きな傷を残す。
だからともすれば目を背け、まるで「死」なんて事実は存在しないかの様に覆い隠してしまおうとする。
実際には「死」は常に私達のすぐ横に寄り添っていて、どんな事象よりも私達に近しいのに。

だから私は、彼がいつ旅立ったとしても後悔しない様に日々を送る。
本当は彼以外でもそうなんだけれど、まだまだそこまでは。

ムスメ達にはそんな風には伝えていない。
だから突然彼がいなくなったら、彼女達は酷く傷つき後悔するかもしれない。
彼女達の将来にトラウマとして影を落とすのかもしれない。
それでいいと思っている。
トラウマは決して悪いわけではない。
そこから学び、そしてそこから一歩前へ進むことが大切だと思う。
そのためなら私は全力で彼女達を支える、彼女達の悲しみを受け止める。

今日も彼はムスメ達にいろいろ教えてくれるイイ兄貴として、すぐそばでリラックスした様子で寝そべっている。